「愛について」考えよう。

アメリカ文学者の竹村和子さんが亡くなられた。


彼女の訳書トリン・T・ミンハ『女性/ネイティヴ/他者』(岩波書店、1995年)は刊行されたときから、衝撃的だった。
トリン・T・ミンハのポスト・コロニアル理論とダナ・ハラウェイのサイボーグ理論が、非常に近いところにあったから。
夢中で読んだ。日本語になったトリンの文章は、難解で、まるで美しい詩を読んでいるようだった。


実際にお会いしたのは、手元の記録をみると、


1996年10月19日 「シンポジウム:クィア・セオリー/リーディング/ライティング」(小谷真理×竹村和子×村山敏勝 )、筑波大学比較・理論文学会・第2回総会・研究発表会、於:筑波大学第二学群2B406 教室。


のとき。


そうだった。この日は、東京駅からバスで筑波へ向かったのであった。村山君とはバスが一緒になり、道中ジュディス・バトラーとかイヴ・セジウィックとかの話をした。バトラーの『ジェンダー・トラブル』に出てくるパフォーマンス理論てさー、スピーチアクト理論からきたものだと思わない? なんて、そんな会話。


パネルでのわたしの発表は、J.G.バラード原作の映画『クラッシュ』に関するもので、よくこなれていたとは言いがたいものだった。自分で自分を蹴っ飛ばしたくなるようなその論考を、あとで猛省しながら徹底改稿し、苦い思いと一緒に、拙著『おこげノススメ』(1999)に収めた。


そんな反省に満ちた発表とは裏腹に、竹村さんとの出会いは愉しかった。少々落ち込んでいたわたしに、懇親会場へ向かう道すがら、竹村さんがやさしく話しかけてきた。
眼鏡越しの目がチャーミングなひとだった。当時クィア運動でも、アカデミシャンとアクティヴィストの間には、「だれがその問題を語るのか」という当事者問題をめぐって対立があり、来日してアカーで活動していた日本文学者のキース・ヴィンセントと口論になった、という話を聞いた。
うーん。キースだったら、情け容赦しないだろうな、と苦笑しながら、わたしもやおいについて激闘した<ユリイカ>の対談の話をした。


それから15年。
大学の企画に呼んでくださったり、いっしょにパネルをしたり、書いたものを読みあったり。MLAの学会でばったり会ったりした。
黒いハイネックに黒いスカートの後ろ姿はほっそりしていて、女子学生(もちろん優等生なのだ)のようだ、とひそかに思った。
そんなふうに、前を歩いている竹村さんの後ろをとことこついていきながら、わたしは文章をこつこつ記してきた。


竹村さんは、理論に関しては学者らしくスタンダードな好みをお持ちで、ウルトラ級の難解な論考への理解能力の凄さでは、群を抜いていた。
男性論客の理論に習熟しながら、抵抗して、そこから身をもぎとるように離し、自分たちの世界を創造していこうとする女性知識人は、いつでも独特の辛さに苛まれつづけるものだが、彼女は茶化すことなく静かに受け止めていた。巫山戯すぎるわたしは、いつも自分を恥ずかしく思った。


2001年にテクハラ裁判が終わる、ほんのすこし前。
裁判での論証の理論的背景となったジョアナ・ラス『テクスチュアル・ハラスメント』を邦訳・出版した。
書評は、評者がどれほどの読解力の持ち主かを、簡単に暴露してしまう。竹村さんは、相変わらずきちんと緻密に読んでいることをうかがわせる、文学者らしい、よい書評をくださった。(<日経新聞>「読書」、2001年3月18日) 
【テクハラ裁判関連のデータ → http://enjoy.pial.jp/~fdi/  】


2009年、秋も深まった11月に、イヴ・セジウィックの追悼パネルが、全米日本文学会@ニュージャージー州立ラトガーズ大学で行なわれた。パネルのメンバーは、メアリー・ナイトン、キース・ヴィンセント、ニーナ・コーニッツ、わたし。それにコメンテーターとして竹村さんが出席されることになっていた。しかし、わたしが渡米しようとする前日、突然彼女から欠席を知らせるメールがきた。ニューブランズウィックの気候を調べ、あたたかいお洋服をトランクにつめこんで、行く気満々だった竹村さんのメールの文面を読んで、なんとなく、黒い不安のようなものが、頭をかすめた。
http://ajls2009.rutgers.edu/program-navmenu-116

翌年 2010年の秋に開催された国際ペンの東京大会では、女性作家委員会でトリン・T・ミンハと、カレン・テイ・ヤマシタ両氏を海外からお招きし、日本人作家・津島佑子氏も入ったパネルを開催した。「越境」がキーワードだった。そのパネルの聴衆のなかに、竹村さんがいて、(しかも髪がメッシュでめちゃかっこよかった <パンク?)、質問をしてくださった。夜、宴会にも参加された。
なんだ。元気そうじゃない。
と、その晩、ほっとして祝杯をあげたのもつかのま、ふたたび体調を崩された、と風のたよりで聞いて、心配になった。


今年に入って、ジョアナ・ラスに続き、竹村さんと同じお茶大の管聡子さんがすでに亡くなられている(思い返せば、筑波でパネリストだった村山さんも、 5年前に病没されている)。それに続く竹村さんの急逝は、打撃だった。


ぼーっとしている間に、夥しい死に取り巻かれるようになった。
死はヒトの宿命とはいえ、彼女たちの若さが、無念でならない。


もっとことばを交わしていたかった。もっと愛したかった。