第一部

文系・理系・海外の学者による国文学といったそろい踏みで迫力あるセッション。
巽孝之瀬名秀明、スーザン・ネイピア各氏が、順に小松左京御大の著作からそれぞれ興味ある部分をひいて、自らの論旨を展開する、というやり方。
ひとりあたま、20-30分といったところでしょうか。

まず巽孝之氏から、舞台上に小松御大が登場するにあたって、本日は消防庁に許可をもらって舞台上のみ、喫煙許可が下りている旨、説明された。客席は禁煙、とのこと。
これには、場内から笑いがもれ、さてさてそこで…と御大がこよなく愛するアメリカ南部作家フォークナーをアメリカ文学者の立場から検証していった。
普通だったら、フォークナーといえば、『八月の光』でしょう、なのに、なぜ御大の好きな作品は手に入りにくい「野生」なの? なぜにフォークナー? なんてったってフォクナー!という話にだんだんなっていく。南部作家というところに謎解きのヒントがありそうで、そそられる。


続いて、瀬名氏は、御大のノンフィクション系の書き物から御大のクロスオーバーの知を、チェスタートンの指摘するアマチュアリズムと捉え、それを今日の科学をめぐる境界横断の方法論へとつなげてみせる。ゴリゴリのカトリック信者でミステリ作家チェスタートンがSF作家ウェルズと論争していたという下りも初耳。
現在、境界横断的な方法論が氏のお務めする大学の科学者たちの現場に持ち込まれて実践されている、というのだから、驚く。
門主義で細分化される現場からクロスオーバーの知的実践へと飛翔する瀬名氏の思考はいかにもSF的なセンス・オブ・ワンダーに満ちあふれてさわやか。若々しさが光る。

スーザン・ネイピアさんは、『日本沈没』とP.D.ジェイムズ『人類の子どもたち』を比較検討しながらSF的方法論がいかに青少年の教育現場に必要とされるかを、語った。
たどたどしい日本語とわかりやすい論旨が鬼気迫る感じで、聴衆がしーんとして聞き入っているのがすごかった。聞き逃すまい、という緊張感がすごくて、あれはなんだったんだろう。
日本と英国の両作品がアポカリプティックな危機的状況をテーマとして扱い、そこで古典文化へのアナクロニズムが表出していくと指摘するネイピアさんの分析は、このネオリベの時代に黙示録的な作品をどう読んだらいいのだろうという問いを迫ってくるようで、興奮した。
…が、御大自身は聞き惚れてねちゃったみたいで、それがまたご愛敬(^^;)。 情け容赦なく、それにつっこむ巽教授も、教育者って感じで…(^^;)